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礼拝
嶋田和幸

常盤台バプテスト教会 2025.8.3 主日礼拝 「刻まれた愛」カンボジアバプテスト連合 嶋田和幸宣教師【マタイによる福音書 22章34~40節】(新共同訳 新約P.44)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                  
招詞    詩編 30篇11~13節   司式者
祈祷                        司式者
賛美    新生19番「くすしき主の愛」
主の祈り
献金感謝
主の晩餐式 「ひとつの聖霊」
聖書    マタイによる福音書 22章34~40節
宣教    「刻まれた愛」カンボジアバプテスト連合 嶋田和幸宣教師
祈祷
賛美    新生378番「海よりも深い主の愛」
頌栄    新生674番「父 み子 聖霊の」
祝祷
後奏
宣教概要
 私たちはカンボジアで、教会の子どもたちと教会学校を行っており、暗唱聖句に取り組んでもらっています。その暗唱聖句の中で、特に多くの子どもたちがすでに暗記した聖句があります。それが、マタイ22:39「隣人を自分自身のように愛しなさい」です。イエス様はただ、「隣人を愛しなさい」ではなく、隣人を「自分自身のように」愛しなさいと言っています。なぜイエス様は、単に「隣人を愛しなさい」ではなく、隣人を「自分自身のように」愛しなさいと教えたのでしょうか?
この「愛しなさい」の部分の元のギリシア語は、「アガパオー」という言葉です。この「アガパオー」とよく似ている言葉に「アガペー」があります。「アガペー」とは、神様の愛のことです。このアガペーが動詞になった形が「アガパオー」愛する、という言葉です。聖書にはこの「アガパオー」以外にも、「愛する」という言葉があります。それが「フィレオー」です。フィレオーとは、親子や友人同士の間に働く愛のことで、アガパオ―より一般的な言葉です。
ここで重要なことは、イエスさまが「自分自身のように隣人を愛しなさい」と言われる時、アガパオーが使われているということです。つまり、神様の愛によって、隣人を愛するということです。このことを、使徒ヨハネはこのように表現しています。第一ヨハネ4:19「私たちは愛しています。神がまず、私たちを愛してくださったからです。」ここにももちろん、アガパオーが使われています。
私たちが隣人を愛することができるのは、神がまず、私たちを愛してくださったからなのです。ここから、イエス様の言葉「自分自身のように隣人を愛しなさい」をもう一度考えてみると、「神様が私自身を愛してくださったように、隣人を愛する」ということになります。
つまり、私たちの隣人であるその人が、私たちと同じように神様の愛を体験し知ることができるように愛しなさい、向かっていきなさい、ということです。もう少し単純に言えば、私たちが神様から頂いた愛を、隣人と分かち合いなさいということです。その隣人は、私たちを通して神の愛を体験し、知ることになります。
イエス様が単に「隣人を愛しなさい」ではなく「自分自身のように隣人を愛しなさい」と言われたのは、まず、自分自身に注がれた神様の愛を思い起こしてほしい、そう願っているからです。その愛を隣人と分かち合って欲しいと、イエス様は願っておられます。
その神様の愛について、第一ヨハネ4:9-10にこうあります。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
聖書によれば、私たち人間を通して、世界に罪が入りました。その罪によって私たち人間は、創られた本来の形から歪んでしまいました。その歪みの1つは、私たちが、創り主である神様を礼拝する代わりに、創られたものを礼拝してしまうことです。私たち人間が、罪によって歪んだ形から、本来の姿へと回復するためには、罪の償いが必要でした。イエス・キリストは十字架の上で、私たちの罪をつぐなうためのいけにえとなってくださったのです。
この愛は、実は、私たちが神様によって創られた時から、既に私たちにはっきりと刻まれています。エフェソ2:10「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」キリスト・イエスにあって造られたとは、神様が私たちを創られたとき、私たちの内に、キリストの愛が刻まれたということなのです。